第1回 交通は手段か目的か

2021.07.01

髙橋 愛典(高槻市自動車運送事業審議会会長、近畿大学経営学部教授)

バスイメージ画像

交通はあくまでも手段であり、目的にはなりえない。「交通手段」というではないか。これは例えば、交通経済学の知識としては入門編である(経済学用語を使うと「交通需要は派生需要であって本源的需要ではない」と表現する)。私自身は、若い頃はあてもなくドライブに出かけたし、鉄道に乗ること自体が目的という「乗り鉄」の皆さんの感覚は、わからないでもない。とはいえ、交通それ自体を目的として移動できる人や時間は、交通需要全体からすればごくわずかである。つまり、「交通は手段か目的か」という論争には、遠い昔に決着がついている。しかし、コロナ禍に突入して1年以上が過ぎ、移動が制限される中で、交通の思わぬ効用に気付くこととなった。

文系の大学教員という職種は、在宅勤務に比較的馴染みやすい。実際、授業と会議以外は自宅で仕事をする「書斎派」の教員は、コロナ禍前から多かった。対する「研究室派」だった私も、ステイホームが推奨され授業や会議もオンラインばかりになり、おとなしく在宅勤務を旨としている。夕方、オンライン授業を終えてLDKへのドアを開けると、家族との夕食と団らんの時間が瞬時に始まる。とても便利なのだが、頭が上手く切り替わらないときがある。そして結局のところ、研究室に置いたままの本や資料を確認するといった理由で、大学に行かざるを得ない。そのとき感じるのは、移動の最中に「頭が切り替わる」という効能である。今や不謹慎かもしれないが、敢えて研究室に、何か置き忘れてこようかと考えてしまうほどである。 

バス車内イメージ画像

もう一例。コロナ禍以前は、平均して月に一度は東京などに出張する日々であった。その折、特に新幹線の中で読書や食事をする時間にも、非常に大きな意味があったことを痛感する。路線バスで読書をすると車酔いしてしまうが、高松からの帰路の高速バスが妙に快適で、読書が進んだことも思い出す。このように、まわりの目を気にして諸々配慮しつつも、自由に過ごし、思いを巡らせる空間は、私にとっては喫茶店と似た「コックピット」である。もっとも鉄道やバスの車中は喫茶店と違って、居眠りしても大した支障もないので、出発前に楽しみに持参した本に触れることなく、出張の荷物を増やすだけに終わったことも、一度や二度ではないのだが…。こうなると「交通は手段である」と単純に言い切ることは実は難しい。交通研究者の端くれとして、決着が付いたはずの論争に、新しい切り口を見出せる気がする。

本稿の執筆・校正時点では緊急事態宣言が発出されており、大阪市内の自宅から高槻市にお邪魔して本稿の題材を仕入れることさえ、どうも憚られる。次にお鉢が回ってくるときには、心置きなく高槻を訪れられる状況が戻っていることを、心から願っている。

プロフィール

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髙橋 愛典(たかはし よしのり)
1974年千葉市生まれ。専門は地域交通論、ロジスティクス論。早稲田大学商学部助手、近畿大学商経学部講師などを経て、2013年より近畿大学経営学部教授。2004年以降、高槻市営バスの審議会委員やアドバイザーを歴任し、2019年からは高槻市自動車運送事業審議会会長を務めている。